沖縄本島の中部、名護市にある屋我地島。のどかな島の北部には、国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園がある。そこは、戦時体制の中で、「患者が患者として扱われない」医療施設だった-。(中嶋泰郁・早稲田大学教育学部社会科社会科学専修3年)
愛楽園は、1938年11月に開園し、現在77年目だ。現在の愛楽園の理念は、「入所者・高齢者が安心して生活できる場の提供」だ。「入所者の権利及び人格を尊重します」「快適な療養環境を提供します」などの基本方針がある。当たり前のことじゃないか、と思うかもしれない。しかし、それらとは程遠い「医療行為」が、戦前から、そして戦後までも行われていた。
入所者たちは、日頃から、薪の運搬や、食料の生産を任されていた。1000人ほどの入所者に比べ、職員の数は少なかった。労働がより過酷になったのは、1944年3月、早田皓園長が着任してからだった。当時は、サイパン島が危ぶまれる、太平洋戦争真っ只中。10月に沖縄に空襲が行われるのではないかと予想されていた。空襲に耐えるため、堅固な壕作りが急がれた。壕は、早田壕と名付けられる。
軽傷のハンセン病患者たちが、「早田壕」作りに従事した。10月10日から米軍による激しい空襲を受けたが、直接の空襲で亡くなった人は殆ど無かった。代わりに、過酷な労働環境が、多くのハンセン病患者を、重傷や死に至らしめた。
早田壕は、貝塚を掘って作られた。壁を触ってみると、貝塚の貝はとても鋭い。痛みが指に走るほどだ。力を入れ違えると、指の皮は切れてしまいそうだ。ハンセン病は、末梢神経の病気だ。手足が動きづらくなる症状がある。
スコップをしっかりと握るのは難しく、壕を掘るのは大変な仕事だった。また神経麻痺のため、暗い壕の中での怪我や出血にも、すぐには気付けない。怪我の悪化から来る破傷風やマラリアが、ハンセン病患者の死因となった。
壕の中で亡くなった人には、座ったまま、気付かぬ内に死んでいった人もいたそうだ。壕作りに協力すれば、おかゆが給付された。お粥を食べ、生きるために、壕を堀り掘らされていた。自分たちの入る壕を自分で掘り、そのせいで命を落とす。どんな思いで亡くなっていったのかは、計り知れない。暗い壕の中に入ってみると、劣悪な環境や死んだ人の放つ匂いが、思い浮かぶ。
個々の患者の事情は、「大事の中の小事」として考えられた。早田園長は、来たる米軍の空襲に比べれば、患者の犠牲など大したことはないと考えていた。沖縄で地上戦が始まった後も、この愛楽園は戦争協力に用いられることになる。
「ハンセン病の歴史は、聞くも涙、語るも涙だ」と平良仁雄さんは、語った。愛楽園退所者で、現在語り部ボランティアを務める。続く後編では、平良さんの体験やメッセージを紹介する。
◆関連リンク
「屋我地島のドン・キホーテ」
早田皓園長の息子が記した家族の記録。
http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagaue.html
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