沖縄の方言のなかに「ゆいまーる」という言葉がある。「結い」を意味し、沖縄の古くからの習慣である助け合いや結びつきがよく表れている。2014年10月、国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園で、元患者である平良仁雄さん(75)に話を伺った。彼は、現在語り部として活動している。「助け合いのはずのゆいまーるのこころがハンセン病に関しては排除の理由として使われたのです」平良さんは語った。(大間千奈美・早稲田大学教育学部社会科社会科学専修1年)
平良さんが愛楽園に入ったのは9歳のころ。癩(らい)予防法により、患者が親族と面会を許されるのは面会室の中だけだった。部屋が2つに板で分けられ、板と板の隙間からしか話すことができない。平良さんの父親は、息子と抱き合うことも頭をなでることもできなかった。患者と外部からの面会者だけでなく、施設職員とも完全に切り離されていた。入居者の身に何かあった時は他の入居者が職員のいるところに行き、部屋の前で拍子木をたたいて知らせ、入居者が患者の部屋を消毒液できれいに掃除したのちに職員が土足であがって診察をしていたそうだ。
時には包帯やガーゼを再利用し、患者同士で治療を行っていた。ハンセン病療養所といいながら隔離施設であった愛楽園。外に出た患者は強制的に施設に戻される。「入口はあっても出口はない」医療施設であった。
1945年3月26日、沖縄戦が始まった。多くの現地住民が沖縄県外へ疎開する中、ハンセン病患者は移動を許されなかった。軍は、兵士が感染することを恐れて、愛楽園への患者隔離を強めた。
沖縄戦開戦後間もなくには、愛楽園は米軍によって砲撃される。米軍は当時ハンセン病が完治する病気であると認知しており、療養所だと認知していたら攻撃してこなかった。一方、日本のハンセン病療養所では、患者をなくすための終生隔離施設であった。
米軍の攻撃が始まったとき、上空からでも分かるように赤十字のマークをつけることを求める患者もいたが、患者の中には「甘んじて受け入れよう」という声もあがった。療養所に一発でも多くの爆弾が落ちれば日本軍に落ちる爆弾が減るからだ。当時米軍が作成した沖縄の地図によると、愛楽園の上に刻まれていた文字はBARRACK(=兵舎)であった。助け合いのゆいまーるのこころが歪んだ形で働いてしまったのだ。
今年で 平良さんは76歳になる。足の調子が悪いらしく那覇市に住んでいる平良さんにとって愛楽園での語り部ボランティアは負担が大きい。「家で寝てたら(足の調子)治るんだけど、それでも伝えたい。知ってもらいたい。胸の内を訴えたい」と胸の内を語った。
沖縄の戦争教育においても、戦時中のハンセン病患者に視点を当てたものは多くない。本土においてはなおさらである。当事者自身が伝えていかなくては簡単に「いないこと」になってしまうことには強い違和感がある。いないのではない。平良さんに足を運ばせているのは、彼らの受けた隔離や差別について想いを馳せるのをやめた私たちの無関心ではないだろうか。
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