日本財団はハンセン病の正しい理解を求める「THINK NOW ハンセン病」キャンペーンの一環として、日本の回復者の声を届けている。第2弾は沖縄県宮古島の南静園で暮らす豊見山一雄(85)さんです。(文・日本財団=富永夏子)
◆
■「名前を捨てる理由を知った日」
14歳でハンセン病を発症した豊見山一雄さんは、入院先で「名前を変えなさい」と告げられます。なぜ自分の名前を捨てなくてはならないのかと抗いますが、療養所を脱走して実家に帰った時に、その理由を悟ったと教えてくださいました。
第二次世界大戦が勃発した1939年、豊見山さんは父親が働く台湾へ疎開。数年後、体の異変に気づきます。「皮膚に赤い斑紋(まだら模様)が現れて。そこを鉛筆で突いても感覚がないのです」。
母親と訪れた病院で医師から告げられた病名は、ハンセン病。その時、母親の顔が真っ白になったことを鮮明に覚えていると言います。
豊見山さんは台湾の療養所に入院。強制的に「田中正夫」と改名させられました。14歳の時でした。その理由に気づかされたのは、父親が亡くなった時でした。
手紙で訃報を知った豊見山さんは、仏前に手を合わせたいと、療養所から脱走。疎開して行方の分からない家族を、人に尋ねながら汽車やバスを乗り継いで探しました。
しかし、ようやくたどり着いた実家で、「あんたを家に入れるわけにはいかない」と母に拒まれます。理由は、姉の婚約相手に豊見山さんのことを話していないから。
当時、家族にハンセン病患者がいることが分かると、婚約が破談になることが珍しくなかったのです。「その時、名前を変える意味がようやく分かりました」。
それからは、迷惑をかけたくないからと、家族とは会わずに暮らしました。46年に台湾から引き揚げ、家族が暮らす宮古島に戻ってこられたのは85年。
今では家族や親族とも自由に行き来できるようになりましたが、新たな懸念もあると言います。
それは、国内のハンセン病回復者の平均年齢が80歳を超え、自分で意思を発せない人が増えていること。豊見山さんは、これまで回復者が経験してきた差別や偏見を風化させないためには自分が伝えていかなければという思いで、講演などに精力的に取り組まれています。
[showwhatsnew]