タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう
なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)
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堆肥場はつなぎ場から100メートルほど西にあった。100メートルと言うのはバッターボックスからレフトのフェンス位の距離だから啓介は感覚的に分かった。そこまで一輪車を押してボロ(馬糞を)運んだ。日陰には残雪が残り雪が無い場所の土は黒かった。
どこから来たか金色に近い茶色の鶏が4羽が堆肥の山で餌をついばんでいた。その中で大きな鶏冠と長い尾を垂らした雄鶏が、堆肥の山のてっ辺で、上を向いて、のんきに鴇を告げていた。
「ダングヒル、糞山か」啓介は呟いた。「Love is dung hill」「愛は糞山で、俺はそこに上がって鳴いている雄鶏だ」アメリカのハイスクールの国語の時間で習った、つまりアメリカでは母国語の授業のクラスのヘミングウェイ作「キリマンジャロの雪」の一説を思い出した。
「ああそうか」啓介は思った。「愛なんか糞の山位の価値しかないってことなんだ」主人公ハリーが金目当てで付き合っている女ヘレンに対して自分が死ぬ前にいったセリフだ、死ぬ前に俺にとって愛なんか何の価値もなかったんだと言っていたんだ。多分ハイスクールの先生もここを理解しないで教えていたんだなと気が付いた。その台詞に続いてハリーは俺は糞の山に登って鳴いている雄鶏だと言うが、これは自分の糞の山で鴇の声を上げる、つまり、家で自分の女には偉そうに振る舞う内弁慶の男を言っているんだとひらめいた。
「おい雄鶏さんよ。自分の女たちの前ではずいぶん立派に歌うんだなあ。だけどイタチやハクビシンが来ても、今みたいに立派に振るまえるのかい?」啓介はオフィス備品を売り込みに来た業者に対して見せた平井の横柄な態度を思い出した。この人はこの大手オフィスメーカーに保険を売り込むことになってもこういう態度で売り込むのだろうか?近くにいる女子事務員の傍で偉そうなことを言っているが、物乞いに行くときは首を垂れて、鶏冠を前に倒して、コッコッコと小さく鳴くんだろう。
平井の痩せて小さな顔の眼鏡の奥で光る小さく丸い目が脳裏に浮かんだ。携帯電話が鳴った。「はい船橋です」「おい、どこにいるんや」そのニワトリからの電話だった。いつもの詰問口調ではない。一人ぼっちのさびしがり屋が友達の居場所を尋ねるあの口調だった。
「甲斐大泉です」
「あのスキー場の件かいな」
「そんなところです」
「そやけど、代理店になってもろても・・・」
電波の調子が悪くなって、声が小さくなって、途切れ途切れになって、切れた。
文・吉田愛一郎:私は69歳の現役の学生です。この小説は私が人生をやり直すとすればこうしただろうと言う生き方を書いたものです。半世紀若い読者の皆様がこんな生き方に興味を持たれるのであれば、オルタナSの編集スタッフにご連絡ください 皆様のご相談相手になれれば幸せです。
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