しんしんと容赦なく降り積もる雪は時間の感覚さえも奪ってしまう。
3月も彼岸の頃となると、村人の家々でたっぷりのあんこに包まれたぼたもちがお目見えする。「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、私の住む池谷集落は、未だ2mほどの雪の壁に覆われている。
ただ、雪の代わりに曇天あるいは雨の日が多くなり、雪ではないことに幾分かほっとする朝も多くなった。霧が池谷を覆う日も増えた。気温が上がっている証拠で、山肌から滑り落ちた雪の跡に黒々とした岩壁や杉も見えるようになった。
白と黒以外の色彩が春という名をもって現れるわけではないが、1日米粒1つ程度のスピードで春をゆっくりと感じる。

誰かが豪雪上級者の家、と私の住む分校を表現した。
有数の豪雪地帯と言われている十日町市。その中でもさらに降雪量が増す山地。その山地に位置する池谷でも、一番標高が高いところに位置するのが私の住む分校らしい。
そんな場所でも、投雪機(その名の通り、雪を飛ばす機械)なんてない(一台ウン百万もするらしい)。除雪は私の身体が機械となってせっせとがんばるしかない。

 

12月末から2月中旬にかけて、ただひたすら雪をかまう日々だった。
雪が玄関をふさがないようにと、玄関前にパイプで水を流していた。1月上旬まではなんとか頑張ってくれていた。しかし、パイプ水もひいひいはぁはぁ消雪するもそろそろ限界のようだった。1月中旬となると水量が降雪のスピードに追いつかず、パイプ水自身も諦めたようだ。あとはなすがまま、結局玄関前は私の背丈ほど雪が積もり、雪の階段を作ってそれを下り、玄関に入るようになった。
(ちなみに今はとどまることなく水は流れているのに雪は降らないので、玄関前が苔っぽくなり、ぬめりで滑ることも多々)

玄関を出たときに目の前に雪が深々と積もっていたときの萎え感はどうにも表現できない。こんな中でも私の餌を待っている鶏さん24羽と牛さん2頭がいるのだ。
分校は除雪車が通る道路から外れ、細い坂道をずいぶん上に上がったところに位置するので、その道路まで自分で雪道をラッセルして下っていかねばならない。

かんじきを履いて、スコップを片手にえっせえっせと道をつくる。
鶏小屋までもえっせえっせと道をつくる。
この作業だけで昼前になる。汗ぐっしょり。
かんじきを履いても、股まで雪に埋まる日もあった。
雪にはブラックホールがあり、急に深みにはまることもあった。
誰も助けてくれないし、応援してくれる人もいないし、「ばーか」と私のドジにちゃちゃを入れてくれる人もいない。ただただ雪が私の頭に降り積もる。

 

あとは、鶏小屋まわりの雪を除雪したり、牛小屋周りの除雪をしたり、村の人の家の雪下ろしをしたり、お米の直販の業務や秋にやり残した作業、片付けをしているとあっという間に一日が終わる。
そして毎週末、雪かき体験の方たちが都心からやってきて、受け入れを行う。

 

これだけ書くと、すごく憂鬱な日々のように感じるが、実際はそうではない。

きっと雪のない地域と「比べる」ことをしてしまうとその不便さだけを見て、「大変だ、こんなとこ住めねえ!」ということになるのかもしれないが、その代わりに雪がある地域にしかない宝物やドラマもある。雪を制圧する克雪よりも、雪と手を組めるような関係がよりよい地域を作るように思う。

この雪がなければ雪解け水も湧き水も少なく、田んぼの稲の命の水にもならない。陽光の向こう側で枝から落ちて舞う雪の結晶や、雪の絨毯に走る動物の足跡の行方に思いを馳せる時や、のっぺりした雪面がまるで宇宙が落ちて来たようにきらきら輝いてる夜や、大雪の中でもがんばって飛ぶ勇敢な鳥や、分校坂で雪の階段がうまくできて一人密かに喜んだり、雪かきしてほかほかの体で橋場さんと笑い合ったり、「大雪だから皆どっけ過ごしてるかと思って」と散歩する隠居さんに愛おしさを感じたり。

ちっちゃな発見が生活の喜びになれたら、その積み重ねは生活の大変さを勝る。それが豊かで丁寧で且つ丈夫な生き方のように思う。過酷だからこそ、人は助け合う。過酷だからこそ、春の訪れはいくつになっても感動すると言う。
耐えるというよりも受け入れる。
「いつまでも降るわけはないから、降るなら降るで、やあ降れ降れと思ってればいい。いつかは止むんだから。昔は除雪車もなかったし、電線の下を歩いていたこともあった。子供を前をかんじきで歩いて山を毎日下っていた。そのときに比べたら今はそんなに雪はすごかない」

たった数十年前。私達の想像ができないくらい、強靭な生き方が生活そのものだった。