カンボジアやザンビアなど海外での緊急支援・社会的起業・開発援助の経験を生かし、東日本大震災以降、福島市、相馬市、南相馬市での社会的起業の支援事業に取り組んでいるのが、一般社団法人Bridge for Fukushimaの伴場賢一さんです。伴場さんのもとで右腕として活動した後、「みちのく起業」の事業創出プログラムに応募、福島で事業を始めた加藤裕介さんにお話をお聞きしました。

インタビューに応じる加藤裕介さん

――加藤さんがそもそも福島に関わろうと思ったきっかけについて教えていただけますか。

加藤:さかのぼって考えると1年半前、震災が起きた3日後とかになるんですけれども、地元の知人に誘われて募金活動を始めたんですね。朝晩、横須賀各地の駅前に立って募金を呼びかけて。それを3週間やって300万円を集めて寄付をしました。

――すごいですね。

加藤:でも、それから一年が経ってみて被災地の様子を見たときに、あのとき自分たちが集めたお金は結局、何になったのだろう、よく分からないなあと思って興味を持ったんですね。横須賀市を通じて日本赤十字社に寄付をしたけれど、それがどう配分されたのか、当然よく分からないし、そこから先を見に行ったりという機会もなかったので、はてどうしたものかなっていう思いがありました。それがきっかけの半分くらいですね。

――震災があった頃はもう働いていらっしゃったんですか。

加藤:いえ、まだ身分なしの状態というか。中国への交換留学を終え、日本で就活をし、大学を2010年の9月に卒業しました。でも日本での就職は2011年5月からの予定だったので、震災のあった頃は学生ではないし社会人でもないという感じでした。卒業後は、ETIC.を通じて紹介してもらった(株)ワーク・ライフバランスという会社でインターンをしたり、旅行に行ったりしていました。

――募金活動を経て社会人になり、1年が経ってみて、じわじわと気になりだしたのですか。

加藤:はい。きっかけのもう半分は、自分の今後の進路について考え始めた時期がちょうど地震から一年後ぐらいだったんですよ。5月にITコンサルの会社に入社して、8月にはプロジェクトに入り、中国の大連で勤務していました。

――中国ですか。どんなお仕事をされていたんですか。

加藤:ERPパッケージソフトといって大規模なシステムを企業に導入するプロジェクトに入っていました。そのソフトはエンジニアとしてライセンスを取れば個人でも食べていけるような資格でもあったのですが、私が興味があるのは、システムで世の中がよくなることであって、よし!データがきれいに入った!とかそういうことにはあまり喜びを感じなかったですね。

――システムで世の中をよくする。

加藤:ええ。そういうこともあって、働くことについてとか、この先の進路についてとか、いろいろ考え始めたんですね。結果は大切だけれどやっぱり過程を楽しむことも大事だよなとか、インターンで働いたこともあったので、大きい会社と小さい会社を比べてみたときに、やっぱりワーク・ライフバランスでの仕事を振り返ってみると小さい会社のほうがよかったなとか。そんなことを考えているときにちょうどETIC.主催のみちのく仕事のイベントが福島であるのを知りました。

――2012年の3月に福島で行われた説明会ですね。

加藤:はい。インターンで働かせてもらっていた(株)ワーク・ライフバランスの小室社長とかETIC.の伊藤さんから「お前の能力を活かせる途は他にもきっとあるから」と励まされたりアドバイスをもらったこともあって、それでイベントに行きました。

――参加してみて、いかがでしたか。

加藤:話を聞いて、確かに自分を活かせるのではないかと思いました。そのときは会えなかったのですが、どうやら代表の伴場さんはコンサル的な物の考え方をする人らしく、ITコンサルで働いていたんだったら、きっと気が合うと思いますよって、Bridge for Fukushimaの方から聞いて。それで、その場で応募しようって決めたんです。その後は、面接もトントンと進んで、4月の終わりにはもう福島にいた、っていう感じですね。

――会社を辞めて右腕になったわけですよね。社会人になって1年ほどで会社を辞めることに、不安はありませんでしたか。

加藤:みんなに聞かれるんですけど、それはあまりなかったです。親からのプレッシャーというのも私の場合はなかったですし、そもそもお金を稼いでお金持ちになってどうこう、というよりも、仕事を通じて何か自己実現がしたいというか何かを残せたらいいなとか、そういう思いが強かったですね。右腕として食べていけるだろうし、いざとなったら中国でも行こうかなと。いろいろ理由をつけて今動かなかったら、逆に後から考えて「あのときこうしていればよかった」って思いそうだったので、先のことをあれこれ考えるのは止めました。

――他にも様々な右腕募集がある中で、Bridge for Fukushimaを選ばれたのですね。

加藤:はい。とりあえず福島に行きたい、というのは最初から決めていました。岩手、宮城、福島のことを知りたいと思ったときに、いちばん情報が少ないのが福島だなと思っていて。ちょうど福島での右腕募集が始まったタイミングもあったし、その中でも一番気が合いそうだなと思ったのが、Bridge for Fukushimaでした。自分の力を活かせそうだし、役に立てるんじゃないかなと思いました。

――代表の伴場さんとはどうですか。

加藤:伴場さんのバックグラウンド、JICAの専門家として海外に出ていたりとか海外で仕事をしていたこともあることとか、そういったことを知るにつけ、これはいいんじゃないのかなと思いました。それに、他にもいくつか右腕の募集がありましたけれども、Bridge for Fukushimaがいちばんフットワーク軽く動けそうだと思ったんですね。自由を感じたというか、募集要項がガチガチに縛られていなかったんですね。

「かーちゃんの力プロジェクト」の日常のひとコマ。お弁当の試作に取り組む

――ITコンサルタントとしての経験もお持ちですし、決められたことをやるよりは自由にできるほうが楽しいんでしょうね。実際にこちらに来てみて、いかがでしたか。

加藤:それが、こちらに来て5日間で代表の伴場さんがエチオピアに行ってしまって。面接の時に話は聞いてはいたのですが本当に行ってしまって、それからしばらくの間、一人で活動していました。与えられたミッションは、Bridge for Fukushimaが支援をしている「かーちゃんの力(ちから)プロジェクト」(※)と、NPOほうらいのお手伝いをしつつ、地域にある社会起業の芽を探すこと。地域にとけ込みながら取材をしてください、という話でした。

※飯舘村、浪江町、葛尾村などから避難している女性農業従事者(かーちゃん)の集まり。総菜やお弁当作りを通じて、地域の食をそのまま残すための取り組みを行っている。

――いきなり、自ら動かなければならない状況に置かれたんですね。

加藤:最初は、かーちゃんの力プロジェクトが拠点にしているあぶくま茶屋に毎日通ったんです。でも向こうからすれば、「なんだかよく分からないけど、若い人がやって来たよ」みたいな反応でしたね。そこから始まって、だんだんと関係を築いていきました。お弁当を自分で作って持っていって「見て見て、これ作ったんですよ」とか言いながら仲良くなっていったり。最初はここにいる誰が誰で、どういう関係性なのか、見ててもまったく分からないというところからのスタートでした。

――難しかったでしょうね、そういうところから始めるのは。

加藤:社会起業家の取材をしてホームページで発信をしたりとか、助成金で困っていたら申請書を代わりに書いてあげるとか、イベントをやりたいと聞けば、こういう人を呼んだらいいのではないかと提案したり。

プリンタの設定を教えて、というレベルから、頼まれればすぐやってあげることで、ちょっとずつ、ちょっとずつ、彼らの人間関係を把握したり、プロジェクトに入れてもらったり、という感じで進んできました。

もう今では気を使わないで接してもらえるくらいになりました。それからは、伴場さんがエチオピアから戻ってきたり、新しい右腕が増えたりしたこともあって、社会起業家の支援を行うようになったり、東京から学生の皆さんを呼んできてこちらの農家で作業を手伝ってもらいつつ福島の話を聞いてもらう、というようなボランティアツアーをコーディネートするようになったりとか、いろいろと活動の場が広がっていきました。

インタビュー後編はこちら:見えづらい問題こそ、伝えたい、知らせたい
*この記事は、「みちのく仕事」から転載しています。