大震災を経験した東北の小さな漁師町にはどのような人が住んでいるのか。東日本大震災から6年が経過したなか、復興へ向けて立ち上がる人々の素顔を若者が追った。自宅や漁船が被害に遭い、親友まで失った彼/彼女らはどのような思いで日々を生きているのか話を聞いた。

舞台は、岩手県陸前高田市広田町。人口3500人で、広田湾に面した漁師町。震災時には、広田湾と太平洋の両側から津波被害を受け、本島と分断された。死者・行方不明者は50人超、1112世帯中400の世帯が全壊・半壊となった。町に1校あった中学校も津波で流され、150隻あった漁船も1隻を除いて全てなくなった。

広田町は外部のNPOを受け入れていなかったが、震災を機に、この町はある団体と出会った。20代の若者たちからなるNPO法人SETだ。

同団体では、毎年都内に住む大学生を広田町に連れてきて、住民とともに地域の課題を解決する企画を行っている。今回、SETの学生メンバーが広田町の住民にインタビューした。

◆風評被害で出荷半減

風評被害に立ち向かった海の男が大学生に生き様を伝えている。岩手県陸前高田市広田町でカキの養殖業を営む大和田信哉さん(60)だ。苦境に立たされたときにこそ、「動け、口だけで終わるな」と発破をかける。(NPO法人SET=有薗 文太・青山学院大学教育人間科学部3年)

風評被害に立ち向かった大和田さんに話を聞いた

風評被害に立ち向かった大和田さんに話を聞いた

大和田さんは、広田町で最も山と海が美しく見える地区の一つ、大陽(おおよう)地区で働く漁師だ。牡蠣の養殖をメインに行っているが、もともとは、ワカメやホヤなどの海産物も同等に取り扱っていた。

東日本大震災が起き、生産性を重視していくために、ホタテをメインに取り扱いだした。そして今は、ホタテよりも死滅率が低く、生産が安定する牡蠣の養殖業を中心に据えている。漁師として生計を立てていくために、その時代に応じて、試行錯誤しながら、取り扱う海産物を変えてきた。

約10年前、ノロウイルスによる牡蠣の風評被害が起きた。信哉さんにとって、世間のイメージで牡蠣が売れなくなると、死活問題に発展する。この時、どのような心境で何をしていたのか、信哉さんに尋ねた。

「悔しいし、不服だったね。何の根拠もなかったのに出荷量が半減してしまった。現状を打破したいと思ったけど、ただ単に口だけで反論するだけではダメだと思った」

この言葉の通り、信哉さんは動き出した。当時、水産学部を三陸で構えていた北里大学で海毒の講習を受けて、ノロウイルスの対策を勉強した。ノロウイルスの食中毒は、牡蠣が直接の原因ではないことを資料にまとめ、放送局に提出した。

反論だけしても意味がないと伝える

反論だけしても意味がないと伝える

その結果、「牡蠣=ノロウイルス」という間違った報道は消え、牡蠣で生計を立てられるように持ち直した。信哉さんの、「ただ声を上げるだけでなく、実際に自分に何ができるかを考え、やりきる姿勢」は、今の私の胸に深く残ったものだった。

信哉さんは今後どんな未来を描き、歩いていこうとしているのか。今後の展望を聞いてみた。

「一言で言うと牡蠣の流通経路の拡大。現在出荷している牡蠣は95パーセントが築地に行っている。それだけでは牡蠣が出回る範囲も限られてくるし、食べてくれる人の口に届くまで時間もかかってしまう」

そこで信哉さんが考えているのは、群馬や長野など海の幸とは比較的縁遠い土地や地域に新しい販路を拓くことである。磯の香りが豊かな広田の海の幸を、まだ牡蠣に馴染みのない人へ「新たな出会い」として提供したいと言う。

その話を聞いていて、そこに信哉さんの牡蠣への誇りやこだわりを垣間見ることができた。これからも信哉さんは、より多くの食卓の笑顔のために新鮮な牡蠣を届けていくだろう。

広田町には、多くの大学生が訪れ、活性化しているが、当初大学生を見た時は、複雑な気持ちだったそうだ。それは、自分自身が親として子どもを育て上げたからこそ感じることだった。

信哉さんは、「大学生がこんなところに来て何か意味があるのだろうか。勉強しなくて良いのか」と思っていた。しかし、たくさんの大学生と触れていくうちに、継続して関わっている大学生に、「芯」のようなものを見ることができるようになったそうだ。

目の前の大学生がどんな思いを秘めて来たのか。その背景まで共有できる関係性だからこそ、今もなお、大学生と楽しい日常を過ごせているのではないだろうか。

最後に、信哉さんに、 これから広田に来る大学生に向けてメッセージをもらった。

「後追う者も開拓者であるべき」と一言。そして、こう続けた。「たぶん、広田に来る前に、それまで広田に関わってきた大学生から、様々な思いや広田の魅力を聞いていると思う。その思いに少しでも興味を感じ、響くものがあったならば、是非自分の足で赴き、自分の目で見にきてほしい。きっと何か勉強になることがあるはず」。

信哉さんが最初に大学生と出会ったのは約一年前。いまでは徐々に、東京から来た大学生とつながりができ、その関係性に何かしらの可能性を見出すようになった。彼はこれからも、新しく来る大学生に自らの生き様を背中で語ってくれるに違いない。

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