タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう

なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)

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◆ソーラーシェーディング

勿論組織は無い。金だってない。彼らが持っている物はアイディアと勇気だけである。そして彼らはそのアイディアと勇気をあらゆる手段で、あらゆる場所で発表するのだ。末広は我々三人に、この事業が持つ社会的意義を熱く語っている。次はビジネスモデルだ。これに納得できれば金は集まる。人も集まって組織も出来る。

「親父さん」と啓介は呼びかけた。「俺は何にも考えないってわけじゃないんですが、親父さんのビジネスモデルをまず聞かせてください」末広は啓介の言葉が終わるのを待ちきれずに口を開いた。

「ソーラーシェアリングって聞いたことあるか?」
「俺なんか聞いたことがあるような気がする」と敏夫が言った。
「アイドントノー」とリズ。
「知りません」と啓介。
「では説明する。これはそもそも俺たちが言い出した言葉なんだよ。シェアー、つまり太陽光を作物と発電で分けるというアイディアなんだ。これを農水省では営農型太陽光発電と言う。しかしこのアイディアは我ながら、悪い考えだと思い始めたんだ。太陽光を圃場の上にまばらに置いて、まばらな光を作物に与える。このまばらが発電と作物の両方の為にならねえと思い始めたんだ。チェッカー状に敷設されたまばらな太陽光パネルは、びっしり並べたパネルと比べて場所を取る。それを支える架台も大規模にかつ複雑になるから金もかかる。十分日が当たらなければ作物にも良いわけがない。唯でさえ供給過多になっている農作物市場において、痩せたキュウリや色の薄いかぼちゃなんか誰が買う?だから俺はまばらな太陽光パネルの敷設は良くないと言う立場をとるようにしだしたんだ」

「びっしり置けば日が当たらん」と敏夫が言った。「日が当たらんじゃ、野菜もできん」
「そうか?どんな野菜も出来ねえか?」末広が聞いた。「出来んです」と敏夫。
「じゃあ聞くが、ミョウガはどうだ、生姜はどうだ。三つ葉だって陽の光が嫌いだろう?キノコなんて日陰でなけりゃ出来ねえ。だからソーラーをシェアーするんじゃなくて、ソーラーを遮光する。つまりシェードする。ソーラーシェーディングで日陰が好きな作物を作るのよ。日向が好きな作物が太陽光を取り上げられた日にゃ、まんべんなく出来が悪くなってしまう。ただでさえ余ってる野菜の出来が悪けりゃ誰が買う?味が良くても形が悪いだけで出荷が出来ないのに、色の悪いうらなりのかぼちゃや、痩せたキュウリを誰が買うのかい?だから俺は日当たりの悪いところでおっかなびっくり野菜作りなんかしねえ。胸を張って日陰で作るのよ。日陰が好きな作物を日陰で作るのよ。電気は100%、野菜は120%だぜ。末広は最後に大きく息を吸って、それがソーラーシェーディングのビジネスモデルだ」と大声で言った。

文・吉田愛一郎:私は69歳の現役の学生です。この小説は私が人生をやり直すとすればこうしただろうと言う生き方を書いたものです。半世紀若い読者の皆様がこんな生き方に興味を持たれるのであれば、オルタナSの編集スタッフにご連絡ください 皆様のご相談相手になれれば幸せです。

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