宮城県の中央部に太平洋に突き出た半島がある。その名は、牡鹿半島。ここには小さな漁村が点在しており、牡蠣や海苔の養殖を中心とする水産業が盛んに行われている。2011年3月11日、そんな牡鹿半島を東日本大震災が襲った。最大8.6m以上の津波が押し寄せ、死者や行方不明者は3500名以上にのぼったとされている。この未曾有の大災害により、多くの漁師は資材や作業場を失い、漁を辞めるという決断を迫られた人も少なくなかった。今回は、そんな中で漁を続ける覚悟を決めた、牡鹿半島在住の二人の漁師からお話を伺った――。(早稲田大学高野ゼミ支局=米山 知奈津・早稲田大学国際教養学部4年)
*この連載記事は3本あります。こちらは2本目となります。まだ1本目をお読みになっていない場合はこちらから読んでいただくことをおすすめします。
「どうぞどうぞ」。菅野さんと私を温かく迎え入れてくれたのは、宮城県漁業協同組合に勤めつつ牡蠣の養殖も行う伏見さん。菅野さんと遠い親戚の関係にあると言う彼は、菅野さん同様、出会った時から人の良さが滲み出ていた。
伏見さんには幼い頃、船長になるという大きな夢があった。努力を重ねた末に見事この夢を叶えた彼は、若かりし頃、船長を務めていた。しかし、結婚を機に親の仕事を継ぐことに決め、それ以来、今の仕事に従事している。
そんな伏見さんは東日本大震災の日、津波にさらわれ九死に一生を得た。
その日何があったのか、彼は語ってくれた。
「あの日はかなり大きいの(地震)が来たなと思って、家の様子を見に帰ったんだ――」
2011年3月11日、午後2 時46分。マグニチュード9.0の激震が東北地方を襲った。地震発生後、仕事場から自宅へ向かった伏見さんは、帰宅直後に巨大な波が押し寄せてくるのを目の当たりにした。
咄嗟の判断で家と塀の隙間に逃げ込んだが、気付いた時にはもう津波に飲み込まれていた。死に物狂いで水を掻いた。もがきにもがいた挙句、何とか水面から顔を出すことが出来た。その時、近くに屋根を見つけ、その上によじ登った。しかし、安堵も束の間、津波は彼を屋根ごと掻っ攫っていった。
流されている最中、色々な物が倒れてきて気が気ではなかった、と彼は言う。身体が濡れていたため、倒れてくる電信柱に触れれば感電してしまうと、必死になって避け続けたそうだ。
そろそろ引き潮になるという頃、彼は「あぁ、引き波に流されていくのか」と思っていた。ところが、強い押し波に運ばれていたせいか、彼が乗っていた屋根は山に打ち上げられ、幸いにも引き波には乗らなかった。
こうして彼は、何とか一命を取り留めた。
「助かった人ってのは皆、運が良かったんだな。ただ、それだけだ」
と、伏見さんは言う。
「んだな。」
菅野さんが相槌を打つ。
菅野さんもあの日、沖出しを始めて間もない時に津波に遭っていた。沖に出るのがあと少しでも遅ければ、船の支度をしている最中に津波にさらわれていたかもしれない――。
「だからこそ、亡くなった人の分まで一生懸命生かなきゃいけねえって思ってんだ」
伏見さんは、助かった自らの命の重さを噛み締めるようにして、こう言った。
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