厚生労働省によると、新型コロナウイルス感染防止のための自粛によって、児童虐待やDVの相談件数が1~2割増えている。これは今年の1月~3月の数字なので、緊急事態宣言が出された後の4月~5月はさらに増えるだろう。原因は「声の上げにくさ」が前にもまして日本を覆ったからではないだろうか。今こそ弱者の声に寛容な社会が求められている。(弦巻 星之介)
わたしは現在、小学校一年生と年長の子を持つ父であり、妻は障がいを患っている。そんなわたしが、自粛が始まってからすぐに感じたのは、「声の上げにくさ」だ。
子育てや障がいの話は、ただでさえ当事者の責任にされがちである。そこにコロナという大義名分が加わった。見えない社会の圧力が、普段プライドを持って働いている福祉関係者にまで「こういうときだから(しょうがない)」と言わせた。
顕著に表れたのが、緊急事態宣言後の保育園や学童の受け入れ基準だ。わたしの住む自治体では、どちらも「世帯のうち成人全員が警察、消防、医療などに従事する場合」という基準が通達された。
これでは該当する人たち以外は、例え虐待や解雇のリスクがあっても取り付く島もない。しかも交渉のチャンスは僅か1~2日しかなかったのだ。そして諦めずに相談しても、「お家で何とかできませんか。こんなときですから」と繰り返し言われる。
家庭内で、特に母親に何とかしろというのだ。登園や登校を少しでも減らしたいのは分かる。職員の安全を確保したいのも分かる。でも、今は専業主婦ばかりだった時代ではない。なぜ最初からシャッターを閉めてしまうようなことしか出来なかったのだろうか。
幸い我が家は、交渉の結果、制限付きながらも保育園の応急保育も学童の登校も認められた。でも自分が認められたから良いという話ではない。実際に、基準を見せられて該当しないと諦めた人や、交渉した結果認められなかった人も多かった。そうした家庭は我慢を強いられ、そして二か月もの間、そうした対応が見直されることもなかったのだ。
窓口の人も保育園の先生も、伝言ゲームで定型句を言わされているだけなのかもしれない。でも、悲しいかな非常事態を理由に、本音が出てしまったようにも感じる。子育て世代や障がい者などの声は、「我がままだ」という社会の圧力にかき消された。
我慢させられた家庭。我慢しなくて済んだ家庭。立場の違いから、多くの当事者同士が対立を強いられ、時には保護者同士で繋がることも難しくなった。
繰り返すが、なぜ最初からシャッターを閉めてしまうようなことしか出来なかったのだろうか。「こんなときだから仕方ない」という理由で「我慢してください」と一方的に言われるのなら、最初からこの社会には福祉など存在していなかったということにならないだろうか。
そして、どうしていつも子育て世代の母親だけが、子どもに対するモラルを執拗に問われ、都合よく社会の調整弁にされ続けなければいけないのだろうか。
コロナの問題は、全ての人が当事者で、我慢しなくて済んだ人など一人もいないと思う。コロナ後の新生活様式の構築が叫ばれている今だからこそ、わたしたちは「こんなときだから」と弱い立場の人の声を簡単にかき消してしまったことについて、それでよかったのかどうかをよく考えるべきだ。
そして、わたしたちひとり一人も、我慢を強いられ、苦しみを持つ当事者であったこと、自分が強いられている我慢への怒りを他人にぶつけるのではなく、まず自分自身の苦しさを素直に表明するべきであったことを認めるべきだ。
そこから始めなければ、「特別扱いされている人たち」に敵意を向けたことも、虐待やDVの増加などという最悪の結果を招いたことも、乗り越えることなど出来ない。
民主主義の前提は、「多様性」であり、「まず話を聞くこと」にある。みんなそれぞれ苦しさを抱えている。医療と同様に福祉も簡単に諦めてはいけないものだった。
緊急下に弱者に従順だけを求める社会は怖い。緊急下だったからこそ、困っている人の声に耳を傾ける努力をしてほしかった。その寛容さをもってでしか、「社会の分断」は決して治療出来ないのだから。
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