人工呼吸器や経管栄養などが必要な医療的ケア児が増えています。在宅で暮らす20歳未満の医療的ケア児は、2020年の全国推計で約2万人と言われています。医療的ケアがないと生きていくことが難しい子どもとその家族の「当たり前の生活」を支援したい。そんな思いで、重い障がいのある子どもの日中の預かりや外出支援などのプログラムを提供する団体があります。(JAMMIN=山本 めぐみ)

医療的ケア児を一時預かり、本人も家族も、楽しく過ごせる時間を

一時預かり中の子どもと近くの公園までお出かけ。スタッフと一緒にすべり台を楽しむ

栃木県宇都宮市にある認定NPO法人「うりずん」。重い障がいを持った子どもとその家族が「普通に」暮らすことができる社会を目指し、日中のお預かり、自宅での見守り、外出などのプログラムを提供しています。子どもたちの健康管理に気を配るのはもちろん、子どもたちが寂しく孤独な思いをしたりすることがないように、「安心・安全・安楽」の「3A」をモットーに、「楽しく過ごしてもらうこと」を大切に活動しています。

代表であり医師の髙橋昭彦(たかはし・あきひこ)さん(60)は、2002年に診療所「ひばりクリニック」を開業した際、医療的ケア児のいる家族の状況を目の当たりにしました。

お話をお伺いした髙橋さん

「もともとは病院の中で行われていた医療を家の中に持ってきたわけなので、それは大変です。あるご家庭では、お母さんがトイレに行く時、異常を知らせるアラームの音がすぐに聞こえるようにドアは開けたまま。就寝中もずっとそばにいて、異常があった時にはすぐに起きられるようにスタンバイしていました。まさに24時間、つきっきりのケアです。まとまった睡眠も十分にとることができず、それがずっと続いていく子育てを皆さんは想像できるでしょうか」

さらに別の家族は、平日に自宅を訪問するとお父さんが出てきたといいます。

「話を聞くと『妻は高熱を出して寝込んでいる。仕事の休みをとって、かわりに面倒をみている』と。当時、まだ簡単に仕事を休めるような時代ではありませんでした。しかしお母さんが体調を崩したら、お父さんが会社を休むしか方法がない。これは普通ではないと思いました」

「研究事業」として一時預かりをスタート

「うりずん」の支援室の天井は、青空の壁紙が貼られている。「寝たきりの子どもは、天井を見ている時間が多いです。少しでも楽しい雰囲気が伝わってほしいという願いを込めて、天井は青空になっています」

髙橋さんは医師として、それまでも「医療的ケア児を日中預かれる場所が必要だ」と認識こそしていたものの、「大変だから、忙しいから、お金がないから…と決して自分でやろうとは考えていなかった」といいます。しかし2007年、院長を務める診療所で「人工呼吸を付けた子どもの預かりサービスの構築」というかたちで、1年間の研究事業として一時預かりをスタートしました。

「今もここに通ってきてくれている、たけるくんという子が最初に預かった子でした。当時は一時預かりを支援するような制度もなく、ある財団さんから110万円の助成を受けてのスタートでした。しかし1日6時間の預かりで、人件費だけで2万円ほどかかってしまう。運営は赤字状態で、『これでは誰もやらないし、できないだろうな』と思いました」

このままでは厳しいと感じた髙橋さんは、市役所を訪れて状況を訴えます。

「すると2007年秋、障がい福祉課の担当者が診療所を訪れ、『地域で暮らす医療的ケア児のために新しい制度を作りたい』とおっしゃったんです。2008年3月には市として医療的ケア児の日中一時預かりを支援する特別な制度『宇都宮市重症障がい児者医療的ケア支援事業』ができました」

「この制度ができたことで、私も『やるしかない』と思いました」と当時を振り返る髙橋さん。2008年6月、NPO法人「うりずん」がスタートします。

経営赤字が続いた数年間

「うりずん」を立ち上げるきっかけとなった、3歳から携わっているたけるさんと。「たけるさんは2021年に20歳の誕生日を迎えました。3歳から20歳まで、在宅チームとしてずっと関わった訪問看護師、理学療法士、医師がお誕生日を祝いに駆け付けました」。たけるさんの後ろに写っているのはご家族

「うりずん」を始めるにあたり、施設のバリアフリー化などの資金は持ち出しだったものの、「お子さんを預かると1日いくらというかたちで市から助成が出るので、なんとか黒字でやっていけるのではないかと考えていた」と髙橋さん。しかし3年経っても4年経っても、経営が黒字になることはありませんでした。

「というのも、医療的ケアが必要なお子さんはマンツーマンの手厚いケアが必要ですが、一方で体調が変わりやすく、『今日は3人来るから』と3名のスタッフで待っていても、当日になってお休みということが多くあるんです」

毎年6月に開催しているイベント「Dreamnight at the Zoo」。「宇都宮動物園と共催で行っているこのイベントでは、うりずんのご利用者様とそのご家族を無料で動物園に招待しています。『初めてきょうだいも連れて、一緒に動物園に来ました』と喜ぶお母さんもおられます」

「診療所から運営費を補填してどうにか活動を続けていましたが、赤字が続き、このままでは診療所が倒れてしまうと思いました。そうするとうりずんも潰れてしまう。一体どうしたものかと悩みました」

そんな時、お子さんを預かった親御さんから「(医療的ケアが必要な子どもを)預かってもらって、初めてきょうだいの運動会に行くことができた」「初めてママ友とランチに行くことができた」といった声を聞き、活動の必要性を改めて感じたといいます。

「存続の道を模索し、税制上の優遇を受けられ、寄付が集めやすくなる認定NPO法人になるしかないと思いました。1000人以上の寄付会員を2年にわたって集め、2014 年に認定NPO法人になり、そこからは何とか赤字にはならず運営できています」

同時多発テロに遭遇。「生きて帰れたら、本当にやりたいことをやろう」と決めた

髙橋先生の人生の転機となった、9.11同時多発テロ事件。「前日にニューヨーク・マンハッタン島に入った私たちは、当日研修先のセントビンセント・メディカルセンターに向かっていました。前方ではビルが炎上していました。この写真は、メディカルセンター前から撮影した世界貿易センタービルです。この後ビルは崩れ、私たちも避難しました」

もともとは栃木の病院で、高齢者の在宅医療に6年ほど携わっていた髙橋さん。医師としての寄り添い方を模索していたといいます。

「認知症ケアを行っている宅老所でお年寄りがやさしいケアを受けてゆったりと過ごしておられるのを見て『このようなケアがしたい』と思いましたが、組織の中ではなかなか自分の思ったようにできず、どこかモヤモヤを抱えていました」

その後、生まれ故郷である滋賀へのUターンを決めた際、以前から興味があったホスピスの最先端を見学するために、アメリカのホスピス研修ツアーに参加した髙橋さん。2001年9月のことでした。

9月8日、ワシントンにあるマザー・テレサが設立したエイズホスピスを訪れます。入居者は無料、寄付とボランティアの力で運営されていることを知り「一体どうやったらそんなことができるのか?」とホスピスの案内役だったシスター・ビンセントに尋ねました。

「すると彼女がいうには、『私たちが一度も欲しいと言わなくても、世界中から寄付やボランティアが集まります』と。『窓が壊れたら、誰も直してとはいわないのに、直しましょうかという人が現れます』と。それを聞いた時、不思議と心の霧が晴れたような気持ちになりました」

「『目の前のことをやりなさい、そうすれば必要なものは現れます』。マザー・テレサの弟子であるシスター・ビンセントの言葉が私の背中を押しました。どうしてもシスターの笑顔を忘れたくなかったので、『日本の若者たちに見せたい』と頼んで写真を撮らせていただきました」

「『自分は日本から来た医師で、実はやりたいことができていない』というと、彼女は満面の笑顔でこう言ったのです。『目の前のことをやりなさい。そうすれば、必要なものは現れる』と」

9月10日にワシントンからニューヨークに移り、9月11日、まさに同時多発テロが起きた当日、髙橋さんたち一行は朝からバスに乗り、テロリストが操縦する飛行機が突っ込んだ世界貿易センタービル近くにある、その日の研修先の病院に向かっていました。

「やがてあたりの様子がおかしいことに気づいて。緊急車両がたくさん出てきて、私たちの進行方向に向かって行く。そちらに顔を向けると、大きなビルが真っ赤に燃えていました。しかしまさかあんなことが起きていようとは知る由もありませんから、バスはぐんぐん現場の方へ向かい、世界貿易センタービルからたった3000メートルのところにある研修先の病院の前で降ろされてしまったんです」

「そこは周辺のビル群から出てきた人で埋め尽くされていました。何が起きたか全くわからないまま、燃えていたビルが突然崩れ落ち、悲鳴が鳴り響きました。現場から徒歩で逃げ、ホテルに戻ってニュースを見た時に、初めて何が起きたかを知りました。ビルに飛行機が突っ込み、多くの人が亡くなったと」

その日から飛行機も一切空を飛ばなくなり、ツアーも中止、足止め状態で待機が続いたある日のこと、髙橋さんたちが滞在していたホテルの館内に「すべてのお客様は今すぐ避難してください」という放送が流れました。

「エレベーターは緊急停止して閉じ込められる可能性があるので、28階から地上階まで、皆で非常階段で降りました。この時初めて、『ひょっとしたら自分は死ぬかもしれない』と感じたのです。まさに死を身近に感じた瞬間でした。その時、思ったんです。『もし無事に日本に帰れたなら、自分が思ったことを、思い描いた通りのことをやろう』と」

帰国後、「勤務医としてではなく、自分の思い描くかたちで医療や支援が必要な人に寄り添いたい」と2週間で開業を決意。シスター・ビンセントの言葉、そして同時多発テロとの遭遇が、診療所の開業、そして「うりずん」の設立へと大きく舵を切るきっかけとなったのです。

「みんなが幸せ」であることが何より大切

夏の定番、テラスでプールを楽しむ。「『医療的ケアが必要であってもプールを楽しみたい!』、子どもたちはきっとみんなそう思っています。水の冷たさ、音、光…いろんことを感じられるプール。時には水鉄砲も登場します」

滋賀から再び栃木へ戻り、一から診療所を立ち上げた髙橋さん。突然の決断だったにも関わらず、シスター・ビンセントの「必要なものは現れる」という言葉の通り、たくさんの支援を受けたといいます。

その後、国の制度が改正され、医療的ケア児に対する体制も少しずつ整いつつあるものの、「逆にこれからが勝負」と話します。

「ただ医療的ケアだけをしていればいいわけではなく、その先の当たり前の暮らしを目指す必要があります。地域による支援格差も課題の一つですが、どこで暮らしていても、地域のなかに施設がいくつかあって、本人やご家族が自分たちの希望に合う施設や支援を選べるようになっていけばと思います」

2021年12月、うりずんオンラインクリスマス会にて、スタッフの皆さんと。「今年はオンラインの開催でしたが、ご家族に楽しんでもらいたいとスタッフが考え、仮装して撮影しました。そして最後にはその恰好のまま、参加されたご利用者全員のお宅にクリスマスプレゼントを宅配するというサプライズも!仕事も芸も全力投球です」

「預かっているからすべてを知っているわけではなくて、私たちが知っているのは、その子の、そのご家族の、本当に一部です。共に暮らしていくご家族の、ハレの日ケの日ではないですが、お祝いの日だけでなく日常の日々を楽しく紡いでいくこと、そのためのお手伝いができたら」

「いろんな制度ができて救われる子がいる一方で、日々その子たちが共に暮らす家族、親やきょうだいもまるごと支援できるようなしくみがないと、家族全体としての幸せには行きつきません。親御さんが泣きながら介護するのも、お子さんだけが幸せなのも違います。『みんなが幸せ』であることが大切なのではないでしょうか」

団体の活動を応援できるチャリティーキャンペーン

チャリティー専門ファッションブランド「JAMMIN」(京都)は、「うりずんと12/20(月)~12/26(日)の1週間限定でキャンペーンを実施、オリジナルデザインのチャリティーアイテムを販売します。

JAMMINのホームページ、からチャリティーアイテムを購入すると、1アイテム購入につき700円が団体へとチャリティーされ、医療的ケア児のお泊まり支援を試験的に実施するための資金として活用されます。

「現場として、一時預かりだけでなくお泊まり支援も今後必要だと感じています。親御さんが出産や冠婚葬祭で家を開ける際、日中だけの預かりでは足りませんが、まだ身近なところでのお泊まり支援のしくみが作れていません」(髙橋さん)

「JAMMIN×ACHAプロジェクト」12/20~12/26の1週間限定販売のコラボアイテム。写真はTシャツ(700円のチャリティー・税込で3500円)。他にもパーカー、Tシャツ、エプロン、バッグなど販売中

JAMMINがデザインしたコラボデザインには、いろんな生き物が集まった大きな木を描きました。木の豊かな恵みを受けて、皆穏やかに、楽しくそれぞれの生を生きています。

「どんな人も自分らしく生きられるように」。大きな木は「うりずん」の活動そのものを表現しました。

JAMMINの特集ページでは、インタビュー全文を掲載中。こちらもあわせてチェックしてみてくださいね!

医療的ケアが必要な子どもとその家族が、穏やかに笑顔になれるひとときのために〜NPO法人うりずん

山本めぐみ:JAMMINの企画・ライティングを担当。JAMMINは「チャリティーをもっと身近に!」をテーマに、毎週NPO/NGOとコラボしたオリジナルのデザインTシャツを作って販売し、売り上げの一部をコラボ先団体へとチャリティーしている京都の小さな会社です。2014年からコラボした団体の数は380を超え、チャリティー総額は6,500万円を突破しました。

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