21年度からの9月入学導入が見送られることになった。小学校1年生と年長の年子の親であるわたしは、そのニュースを観て胸を撫でおろした。わたしは就職氷河期世代のど真ん中の人間である。あの地獄を肌感覚で体験した人間だからこそ、この議論が続く中、不安のあまり9月入学の情報ばかりを追ってしまっていた。自分の子どもたちの学年の人数が場合によっては1.4倍になってしまい、受験や就職において不利になる可能性があったからだ。氷河期世代を生み出したことへの反省もないままに、日本社会が再び新たな氷河期世代を生み出すことは、絶対にあってはならない。(弦巻 星之介)

わたしたちが二十代だったとき、若年層の完全失業率が大幅に上昇して異常値を示した(2003年の11.6%がピーク)。1994 年からの約10年間で、当時の若年層に占める非正規労働者の割合は22.2% から47.7%にまで上昇し、他の世代と比べて大企業に勤める割合は今でも非常に少ない(いずれも総務省統計局の調査)。

当時はまだパワハラやセクハラに対する意識が低かった。面接では「落とす」ための圧迫面接という手法が広く用いられたため、精神を病む学生も多かった。就業してからも、今では法律で禁じられているサービス残業や過剰労働で安い労働力として使い倒された。

そして何よりも不幸だったのは、わたしたちの世代は長らくそのことを自分たちの業だと考えてきたことだ。原因が社会の側にあることに気づかず、思い通りに出来ないのは我慢が出来ない自分たちが悪いのだと信じ込まされ、自分たちを責めて来た。

わたしたちの人間性はやたらと「勝ち」か「負け」かで語られるようになった。世代の中で競わされ、分断され、親世代を始めとする上の世代からは「それは甘えだ」と斬り捨てられた。高度成長期の発展を自分たちの手柄故だと考える上の世代には、当時の若者たちの苦しみがわからなかったのである。

氷河期世代の苦しみを「自己責任」と名付けた結果、日本の少子高齢化は今や解決が出来ないレベルにまで進んだ。企業では、働き盛りのミドル層のボリュームは減り、技術の継承も一部では難しくなっている。

国民全体の購買力は落ち、30~40代には精神的な病に侵される者も増えた。専業主婦が減り、共稼ぎが急激に増えた。実際わたしの収入だけで二人の子どもを満足に食わせていくのは、至難の技である。日本は沈もうとしている。これは、誰かの陰謀ではない。自分たちで若者たちの首を絞めてきた結果なのだ。それでもこれからの子どもたちの未来まで沈ませるわけにはいかない。

9月入学の議論の中で一番気になったのは、子どもたちが透明人間のように扱われたことだ。学習の遅れを取り戻すために始まった議論のはずなのに、いつの間にか目的は「グローバル化」となった。

その過程で未就学児童の1学年が1.4倍になろうと、13カ月分×5学年になろうと、さらには幼児教育が中断されようと、「それは仕方がないから調整するしかない」という強引な意見が現れた。調整される側の負うハンデのことが、俎上に乗ることは滅多になかった。まさにいつか見た光景である。

二度と氷河期世代を作ってはいけない。もちろん、未就学児だけでなく、今の現役の学生たちもそうだ。大学には、どうか入試の後ろ倒し等の措置を考えてほしい。企業には、どうか新卒採用を減らさない努力をしてほしい。わたしたちの世代を見れば、次の世代に機会を与えない姿勢こそが、社会として一番非生産的であるとわかるはずだ。

想像力の欠如は、次なる悲劇を生む。当事者じゃない人には「仕方がない」で済む問題も、当事者にとっては切実な問題だ。大事なのは、当事者じゃない人たちが、そのことを想像しながら議論することだ。

大義の下に我慢を強いる社会は怖い。立場の弱い誰かにツケを回しても、そのツケはいずれ社会全体で支払わなければいけなくなる。当事者たちの負うハンデのことを考えながら、じっくりとしっかりと話し合う責任が、かつて氷河期世代を生み出した日本人にはあるはずだ。

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