千葉・館山に、虐待、性被害、DVに遭った女性が自然の中で傷を癒しながら、自らの力を回復していく婦人保護施設があります。心身に傷を負った女性たちが自立を目指す場所として、1965年の設立当時から変わらない「寄り添い」を大切に、支援を続けています。(JAMMIN=山本 めぐみ)
1965年から自活が極めて困難な女性を受け入れ
千葉・館山にある「かにた婦人の村」は、売春防止法で規定される要保護女子(自活困難な状況にあり、転落の恐れがある女性)の中でも、知的障害・精神障害を抱え、長期の保護による生活支援を必要とする女性を全国から受け入れ、支援してきた婦人保護施設です。
「1965年の設立以降、のべ200名の女性を受け入れてきました」と話すのは、施設長の五十嵐逸美(いがらし・いつみ)さん(62)。
敷地11ヘクタール、東京ドームで換算すると2.3個分ほどの森を切り拓いて作られた村は自然豊かな丘の上に立地しており、心身に傷を負った人たちが、ゆっくりと自然に触れながら回復していける環境があるといいます。
村には6つの居住棟と高齢者が生活する高齢者棟があり、現在21歳から90歳までの43名が生活しています。さらに食堂棟、入浴棟、集会棟、管理棟、作業棟などたくさんの建物があって、入所者は日中活動としてここで作業をしています。
「本人たちが生きがいを感じられる場所でありたい」
かにた婦人の村ができた1965年当時は、「行き場のない女性が亡くなるまでを過ごせる場」という前提のスタートでしたが、近年はDVや虐待を受けた方の入所も増えてきました。
「現在は、亡くなるまでを過ごす場所ではなく、ここで自立を目指し、地域で暮らしていくことを目標にしています」と五十嵐さん。
「施設の滞在には特に期限があるわけではありませんが、若い方は、長くても5年ぐらいで施設から出られるようにしてあげたいという思いがあります。…若い時の5年というのは、貴重な時間ですから」
「設立当初から、設立者であり牧師の深津文雄には『本人たちが生きがいを感じられる場所でありたい』という思いがあって、敷地内に陶芸や手芸、製パンなどの作業場、農園や牛舎などをつくり、互いに役に立っているという実感が得られるコロニー(集落)を目指しました。現在も、入所者の日々の暮らしに必要なものを、それぞれが日中活動としてシェアしています」
元従軍慰安婦だった女性との出会い
戦後しばらく経っても知的障害のある人が地域で暮らしていくためのインフラは整っておらず、また障害に対する差別や偏見も強い中、障害のある家族を隠したい、家に置いておくのがはばかられるといったような時代背景があったと五十嵐さんは指摘します。
婦人保護施設は、売春で生計を立てている女性、売春を行うおそれのある女性を収容保護し、職業や生活訓練をして「社会復帰」させるという趣旨で作られた施設であり、能力のある人たちはそれぞれ地域に帰っていくことができましたが、しかし入所が長期化し、家に帰ることもできず、行き先のない人たちが一定数いました。
「そのような課題に直面し、深津牧師は、彼女たちが安心して暮らせる居場所の必要性を強く感じたようです」と五十嵐さん。
一人の女性との出会いもまた、深津牧師に大きな影響を与えました。
「元従軍慰安婦の城田すず子さんという女性との出会いです。城田さんは、繁盛していたパン屋の長女でした。暮らしに困ることはありませんでしたが、14歳で母親が亡くなり、父親が博打(ばくち)で作った借金の形に売られてしまうのです」
「城田さんは従軍慰安婦として、各地の慰安所を転々とします。耐えられなくなった彼女は、出会った男性に『結婚する』と嘘をつき、金を借りて何とか慰安所から出るのですが、本当に結婚する気はないので逃げ回り、とうとう相手から裁判を起こされてしまいます。借りた金を返すためには、同じ世界に戻るより他に道はありませんでした」
「戦局が悪化する中、激戦地となったパラオの慰安所に『どうせ死ぬならお国のために』と自ら志願して渡航した城田さんは、帳場係として若い慰安婦の管理や世話もしていたようです。島は大空襲に遭い、ジャングルを逃げ回り、命を落とした女性も大勢いました」
「終戦後に実家を訪ねると、父親の後妻に『あんたみたいな汚い商売をしていた人は、家にあげられない』と追い出されてしまいます。行くあてを失った彼女は、全国の赤線(売春が行われていた地域)を転々としながら生活を続けます。そしてある時、妹が自死したことを知るのです」
「『もしかしたら、私の商売のことで何かあったのではないか』。そう感じた彼女は『もうこの世界から足を洗わなければ』と思い、たまたま週刊誌で、都内で婦人保護活動をしていたキリスト教系の施設の記事を見つけます。そして深津と出会い、その後かにたの村へ入所することになるのです」
「みんな、ここに帰っておいでよ」
戦後40年を迎える1985年、さまざまなメディアが戦後特集をしていた中で、城田さんは、従軍慰安婦の話題がひとつも出てこないことに、強い違和感と疑問を持ちます。
「戦争という名のもとで性暴力に遭い、あんなにもひどくつらい思いをした女性たち、どこで命を落としたかもわからない女性たちがたくさんいるのに、それが歴史の中から消え去っていることは許せない。当事者として残せるものは残したいという気持ちで、深津牧師に『同僚たちのために、どうか慰霊塔を建ててほしい』と手紙を書きました」
「その翌年、慰霊碑として『鎮魂』と墨書した檜の柱を立て、翌年の1987年には石碑を建てました。その除幕式で、城田さんは泣きながら『みんな、ここに帰っておいでよ』と叫びました」
「このことがきっかけで、韓国で慰安婦にされた女性たちが告白し、戦中のアジア侵略における日本軍による性暴力が明らかにされました。城田さんには、従軍慰安婦として最後にパラオにいた時、管理する立場として売春に加担していたという申し訳なさや後悔が、ずっとあったのではないでしょうか」
障害が見過ごされ、
子どもの時に、すでに搾取される現実がある
時代が変わり戦後78年を迎える今もなお、自分ではどうすることもできないような環境や背景から搾取され、傷つく女性がいます。
「精神や知的障害があった場合に、自分で判断することが難しく、自ら被害に遭ってしまう、被害に遭いやすいということは、一つあるのではないかと思います」と五十嵐さん。
「もう一つには、近年核家族化が進み、地域のつながりが薄れていることも背景にあると感じています。さらにSNSが発達し、匿名性の高いインターネットに出会いやつながり、情報を求め、なかなか家族や個人の問題が表面化しません」
「ぱっと見ではわからない発達障害があった時、それが見落とされ、子どもの時からすでに、同じ子どもからもいじめられたり搾取されたりということが起きていることもあります。実際、かにたにかつて入所していた知的障害のある女性の中には、中学1年生の時に援助交際グループに入れられて、命令されて売春し、お金はすべて巻き上げられていたという方がいました」
「また、反社団体の構成員だった父親から覚醒剤を打たれて、売春させられていたという知的障害女性のケースもありました。母親を病気で亡くした後、仕事で忙しい父親だけでは監護できず、悪い交友関係の中で性風俗に取り込まれ、監禁されてタダ働きさせられていたケースも、知的障害の女性でした」
「こういったケースは、地域の障害者支援サービスの枠組みでは抱えきれず、言わば『地域のお荷物』となってしまっているようで、女性相談の窓口を通して、婦人保護施設に入所相談が入ります」
「最近は、健常な女性が性被害性暴力に遭ってしまったことをきっかけに、日常生活を自立して送ることが極めて困難になっているケースをしばしば目にします。このような被害は自己肯定感や自尊心を棄損し、リストカットや万引き依存、過剰服薬といった行動に人を追い込みます。回復には医療的、心理的な専門ケアが必要で、時間もかかります」
大自然の中、互いを認め合い、ちょうど良い距離感で
自尊心や自己肯定感を取り戻していく
心身に傷を抱えた女性を、どのように支援しているのでしょうか。
「かにたには、季節で違う風の匂いや、土の香り、植物や作物の成長の様子、カエルの声、虫の音、蝉たちの合唱…、そういうことが日々感じられる豊かな自然があります。それぞれの人ができることを、できる範囲ですることをお互いに認め合ってきた『かにた文化』があります」
「このような生活の中で、人は自己肯定感や自尊心を取り戻し、やがて地域に戻って生活したい、できるはずだという前向きな希望を持つようになります。その過程でスタッフが相談にのり、実現を手伝い、達成感を共に味わい、地域生活への再チャレンジに向けて支援しています」
「その人の本当の自由な生活は、施設を出てからはじまるわけで、そこを支えることがとても大事。過干渉にならないように、こちらから積極的に連絡をとるということはないですが、退所後もつながっていられる関係性を、施設にいるうちからしっかり築いておくことが大切です」
「かわいそうな人」や「弱い人」ではなく、
「力を必要としている人」
「選べない人生を強要され、やりたくもないことをさせられたこと、従軍慰安婦はその象徴だと思います」と五十嵐さん。
「選択肢があって、それを自分で選べたら良いよねという、ごく当たり前のことを支えること。私たちは本人に選択肢をきちんと見てもらい、選んでもらって、そこに本人が挑戦していくということを支えたいと思っています」
「彼女たちは『かわいそうな人』や『弱い人』ではありません。ただ、力を必要としている。自分ではどうしようもできない状況をサポートすることで何か変わるなら、手伝ってあげたいという気持ちです」
「過去は大変だったけど、犯人探しや原因探しからポジティブなことが生まれることは、そうありません。それよりも、精一杯生きて、今こうしてかにたにつながってくれて、これからどんな風に楽しく生きていくか、その道を一緒に考えていきたい」
「挑戦に失敗はつきもの。1回や2回で決めつけないこと。相手を裁くことはとても簡単ですが、でも裁く前にやっておくこと、やれることが、たくさんあると思っています」
かにた婦人の村の活動を応援できるチャリティーキャンペーン
チャリティー専門ファッションブランド「JAMMIN」(京都)は、8/21〜27の1週間限定でかにた婦人の村とコラボキャンペーンを実施、オリジナルデザインのチャリティーアイテムを販売します。
JAMMINのホームページからチャリティーアイテムを購入すると、1アイテム購入につき700円がチャリティーされ、かにた婦人の村で暮らす方たちの暮らし、さらに施設を出てからの暮らしを支えていくために、生活用品や衣類の購入、資格取得などに必要な資金として活用されます。
JAMMINがデザインしたコラボデザインには、形も模様もさまざまな味のある陶器と、ただそこに、全てを受け入れるような佇まいで存在する猫を描きました。
どんな人生も、どんな時も、どんな過去も受け入れ抱きしめて、今を見つめて生きていこうというメッセージを表現しています。
JAMMINの特集ページでは、インタビュー全文を掲載中!
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・「みんな、ここに帰っておいでよ」。元従軍慰安府だった女性は、空に向かって叫んだ。搾取される人生ではなく、自ら選べる人生を〜かにた婦人の村
「JAMMIN(ジャミン)」は京都発・チャリティー専門ファッションブランド。「チャリティーをもっと身近に!」をテーマに、毎週さまざまな社会課題に取り組む団体と1週間限定でコラボしたデザインアイテムを販売、売り上げの一部(Tシャツ1枚につき700円)をコラボ団体へと寄付しています。創業からコラボした団体の数は400超、チャリティー総額は8,000万円を突破しました。