1898年、キュリー夫妻がウラン鉱からラジウムを発見した。放射能の癌の治療への有効性が明らかになってからは大量に精製されるようになった。第一次世界大戦のさなか、兵士たちの腕時計に蛍光塗料としてラジウムが使われるようになる。アメリカで文字盤にラジウムを塗っていたのが、のちにラジウム・ガールズと呼ばれる若く美しい女性たちだった。(横浜支局=則定 彩香・横浜国立大学教育人間科学部4年 ココカラ映画部)

ラジウムの危険性を知らされず文字盤を塗り続けたラジウム・ガールズ

ラジウムの危険性を知らされず文字盤を塗り続けたラジウム・ガールズ

給料のよかったこの仕事は、自由に使える金が欲しかった女性たちに非常に人気の職業だった。写真の中の彼女たちは給料で買った毛皮で着飾り、素敵な笑顔を浮かべている。

この映画は彼女たちの悲劇的な運命を告発するわけでも、大声で泣きわめくわけでもない。ただ事実を淡々と述べていくような印象を受ける。

彼女たちはそこで生きていた。今でも放射能の残るオタワで人々は生活を続けている。そしてその延長線上に私たちがいる。ラジウム・ガールズを通して私たちは現在の自分の姿を見る。

1987年のオタワで放射線廃棄物を処理する人々。彼らと現在の日本を生きる私たちとの間には、なんの距離もない

1987年のオタワで放射線廃棄物を処理する人々。彼らと現在の日本を生きる私たちとの間には、なんの距離もない

福島第一原発事故から4年、時と空間を超え語りかけるその声に、そして1601年後まで鳴り続ける放射線測定器の音に、私たちは今、耳を傾けなければならない。

■ラジウム・シティの公式サイトはこちら

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