夢の実現性を競い合う「みんなの夢アワード」(主催:公益財団法人みんなの夢をかなえる会)。毎年、全国から数百人がエントリーし、審査を勝ち抜いたファイナリストが数千人の観衆と審査員、約50社の協賛企業を前に自らの夢をプレゼンする。
会場からの投票で、「日本一」の夢を決め、最高のプレゼンテーターには100万円の夢支度金や協賛企業から最大限のサポートを得ることができる。優秀なソーシャルビジネスには、最大2000万円の出資交渉権が授与される。
今年は2月20日に7回目の同アワードが舞浜アンフィシアターで開催される。開催を前に、シリーズ「ファイナリストの今」と題して、過去のファイナリストたちの近況を紹介する。取材したのは、みんなの夢アワード5で、「途上国の子どもたちに映画を届ける」とプレゼンし、グランプリを獲得した教来石小織さん。
◆シングルマザーの応援団長
2016年2月22日、舞浜アンフィシアターで行われた「みんなの夢アワード6」。2000人の観客の前に最後のファイナリストとして登場したのは、赤いエプロンと三角巾を身につけた大津たまみさん。「私の夢は、シングルマザーハウスを日本中に作ることです」。時に笑顔で、時に真剣に、時に目を潤ませ語る大津さんのプレゼンに、会場にいた誰もが胸を打たれ、大津さんの夢は、「みんなの夢」になりました。(記事:教来石 小織)
同年11月7日、シングルマザーハウス第一号が名古屋に誕生しました。名古屋駅から徒歩15分の好立地。白い煉瓦の外観に、陽射しが差し込むリビング。内覧に訪れる方たちからは明るい笑顔がこぼれます。笑顔の中心にいるのが大津さん。大津さんはとにかく明るくて、近くにいると自然と顔が綻ぶのです。けれど明るく楽しい人ほど、辛い経験をされているものです。
20歳から清掃業界で働き、5年後に結婚した大津さん。翌年の1996年、ご子息を出産されました。夫が立ち上げた清掃会社を役員の一人としてサポートしていましたが、2005年、息子さんが9歳の時に離婚。シングルマザーとなりました。
職を探すも、面接で返ってくる答えは「小さい子どもがいるのですね」「子どもに何かあった時、預けるところはありますか?」というもの。やっとありついた時給800円のアルバイトは、子育てとの両立で働ける時間が制限され、手取りは5、6万円。息子さんと納豆パックを分け合って食べるのがご馳走。体重は40キロを切り、「熱を出した息子のそばにいてやれない」と苦しんだこともあったそうです。
そんな日々の中で、「自分を雇う会社を作ろう」と思い立ち、大津さんは家事代行業の会社を立ち上げました。小さなアパートの一室で一人、「株式会社アクションパワー、始まりまーす」と自分を励ますところから始まりました。
マイナスの状態から起業し成功をおさめた大津さんの次なる挑戦、シングルマザーハウス。大津さんに夢アワード秘話や、シングルマザーハウスに懸ける思いについてお話を伺いました。
――大津さんが夢アワードにエントリーされたきっかけって何だったのでしょう?
大津:仕事でつながりのある方からご紹介いただいて、渡邉美樹さんの講演を聞きに行きました。その時に美樹さんが「みんなの夢アワード」のお話をされていたのです。講演の後、楽屋でお会いすることができて、本気で夢を叶える人のパワーを感じました。「夢に日付を」、というのも目から鱗のようなメッセージでしたし、「よし、挑戦してみよう」と思って。2012年に夢アワード3にエントリーしました。
――夢アワード3?
大津:そうなのです。私実は、3年前にもエントリーして、審査で落ちているのです。三次審査のプレゼンで、私の前にプレゼンされたのが、夢アワード3でファイナリストになった温井和歌奈さんでした。温井さんのプレゼンが本当に素晴らしくて感動してしまいました。私は審査員の方に見向きもされずに落ちてしまいました(笑)。
――その後の4、5にはエントリーされなかったのですか?
大津:そうですね。仕事が忙しかったのと、三次審査で心が折れていて自信もなかったので、向き合うことをやめていました。そんな中でも、シングルマザーの母子が食べるものがなくて餓死した事件や、犯罪者が子ども時代一人で食事をしていたことを聞くにつれ、やはり挑戦したいという気持ちは募りました。
夢アワード6にエントリーしようと思った一番大きな理由は、息子が成人するということでした。
息子が成人した後の私には、二つの道がありました。一つは、会社も軌道に乗ったし、ゆっくりしようという道。もう一つは、どこまでできるかわからないけど、やってみようという道。「これは賭けだ。落ちたらゆっくりしよう」、と思ってエントリーしました。
シングルマザーハウスは、やりたいことをやってきた私が、最後に挑戦したいと思っていたことでした。私、特定の宗教には入っていないのですが、神様は信じてるんですね。ファイナリストに選ばれたという連絡をもらった時、なんだか神様に「やってみなさい」と言われている気がしたんです。
――休ませてもらえませんでしたね(笑)。ファイナリストになってからはいかがでしたか?
大津:大変でした(笑)。プレゼンの先生が優しくて厳しくて。「伝わらない」「全然ダメ」って一度も褒めてもらえませんでした。本番当日、先生が舞台袖で「自分の夢はみんなの夢。みんなの夢は私の夢。はい、行ってらっしゃい」と背中を押してくださったんです。プレゼンが終わって戻ってきたら、「良かった」と一言。
――優勝後の反響は凄かったんじゃないですか?
大津:予想を遥かに超える反響でした。体がもたなくなるんじゃないかというくらいでした(笑)。また、ソーシャルビジネス・ドリームパートナーズから出資を受けられることになったのですが、今までの会社は自分のお金でやってきたので、割と好き勝手に事業を進めていたんですね。今回初めて他から出資をしていただくことになって、こんなに大きなお金を預かっていいのか、自分にできるだろうかと悩みました。
でも経営者として次のステージへ行けるチャンスだとも思いました。いちいち倒れながら、いちいち悩みながら、いちいち背中を押されるんですよね。自分でも自分の未来にワクワクしています。
――夢アワードで夢を語られてから、一年経たずにシングルマザーハウスを誕生されましたね。どのようにして実現させたのでしょう?
大津:まず最初に、11月7日(いいな)の日にキックオフしようと決めたんです。何があってもその日を遅らせないぞと。それから、夢アワードで「応援する」とプラカードを上げてくださった株式会社スマートライフさんの力が大きかったですね。
代表の大地則幸さん自身も、シングルマザーの家庭で育ったということで、夢アワードの日に「実現に向けて具体的な話を進めていきたい」とおっしゃってくださったんです。スマートライフさんのおかげで、立地も良く建物も新しくて綺麗なこのシェアハウスで、シングルマザーハウス第一号をスタートさせることができました。息子もこの建物を見て、「お母さんてほんとラッキーだよね」と言っていました(笑)。
シングルマザーハウスの名前は「パークリンク」にしました。パークリンクのキックオフの日には、渡邉美樹さん始め、入れ替わり立ち代わり約120名の方が来てくださって。自分の夢がみんなの夢になったんだなと、とても感慨深かったです。