身障者学校に入っても、変わらず翔子さんの周りにはたくさんの友達ができた。「障がいでIQが低いと、何もできないと一方的に決め付けてしまっている癖があるが、そんなことはない。そこに通う子どもたちはみんな幸せそうだった」(泰子さん)。
高校を卒業し、作業所への就職が決まっていた。しかし、あるとき、高校の先生から作業所へ送るはずの内申書があやまって自宅に送られてきた。それには、「子育てする資格のない親がいる」と記載されていた。
翔子さんが18歳のとき、父・裕さんが突然病気で他界してしまった。泰子さんは、女手一つで育てるために、仕事に追われ、育児を75歳になる友人に託していた。高齢もあり、課題や書類の提出が遅れてしまうことがあり、そのように書かれてしまったのだ。
これを見た泰子さんは、これから働く会社にこんなネガティブな情報を与えると、翔子さんへの見方が悪くなるのではと思い、就職を断った。学校を卒業し、就職先も決まっていない翔子さんに、泰子さんは初めて大きい字を書くことを教えた。
そして、20歳になったときに個展を開催しようと決めた。それは、裕さんの夢でもあった。これまで、周りにはダウン症だと黙って育ててきたが、20歳を機に、個展を開き、みんなに伝えようと生前話していたのだ。裕さんは、いつも翔子さんの書く字を誉めていて、才能を信じていた。
人生最初で最後の個展のつもりで開いたが、来客者から絶賛され、今では8年が経過し、個展開催回数は250回を超えた。「あのとき作業所に入っていたら、書家にはなれていなかった」と泰子さん。
書家にとっての憧れである建長寺の龍王殿でも毎年個展を開催している。館長が、翔子さんの人柄に魅了させられた逸話がある。
初めて龍王殿で個展を開いたとき、最終日には2000人ほどが来場した。閉園時間になり、泰子さんが事務処理をしていたら、翔子さんがどこかにいなくなってしまった。探すと、トイレにいた。翔子さんは、お客さんが使用したトイレを床に手をつきながら掃除していたのだ。
■晴れない母の不安